日本大学芸術学部で日本最古の映像フィルムが発見される
1897-1899(明治30-32)年頃 浅野四郎撮影
日本橋を南詰東側、京橋方面から写したもので、浅野四郎が機械の到着後に初めて撮影したフィルムの一つとされる。鉄道馬車や大八車の往来がダイナミックかつ鮮明に捉えられ、忙しげに行き交う人々の息遣いまでが聞こえてきそうである。
橋が現在の石造アーチ橋に架け替えられる1911(明治44)年以前の記録としても貴重である
浅草観音
1897-1899(明治30-32)年頃 浅野四郎撮影
浅草寺観音堂。日本橋のフィルムと並び、浅野四郎が初めて撮影したフィルムの一つとされる。浅野は「日本橋の人混みを撮ったり、浅草の観音様の鳩に豆をやる所を撮りました。
主に人間といふより景色か何んかを撮りました。さうしてネガティヴだけは――漸く成功したものが三本か四本出来た訳です」(「四十年前の撮影機と撮影を訊く」『キネマ旬報』702号[1940年1月1日])と述べている。
よく知られた名所を被写体に選ぶと同時に、鳩の動きに高い関心が注がれている点が活動写真ならではと言える。人々の服装から冬に撮影されたことが判る。
本朝廿四孝
撮影年不詳
演劇研究家の児玉竜一氏(早稲田大学文学学術院教授)によれば、「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」三段目切「勘助住家」(俗称「筍」もしくは「筍掘り」)を撮影したものと思われる。
物語は、将軍足利義輝(あしかがよしてる)暗殺の嫌疑を解くため、我が子の首を差し出すこととなった武田信玄と上杉謙信の対立を背景としている。現存するコマは、謙信の子景勝(かげかつ)の身替りになることを拒んだ横蔵(後に山本勘助)が、自らえぐった片眼を手水鉢で洗って確かめるという場面。
なお、「映画法実施記念 映画文化展覧会」の出品目録には、柴田常吉の「ある舞台面」という詳細の不明なフィルムのコマの記載があるが、今回発見されたフィルムのコマがそれに該当するものか現時点では特定ができない。
https://meiji.filmarchives.jp/gallery/04.html
湿度管理や定期クリーニングしてないと
黴や酢酸でバキバキに劣化するので、ここまで状態の良いビデオはそう多くはないでしょう。
日本最古の写真
ちなみに、日本最古の写真はこちら
江戸時代の神田川